母と私

聴覚障害

歳を取れば取るほど、自分の思考や行動って母の影響をすんごく受けてるなあと思うのです。良くも悪くもね。

過去の自分と母とのことを色々思い出しつつ、自分の記憶と感情を整理するために書き綴ってみました。

ということで長い自分語り、失礼します。

誕生

北の港町、ど田舎生まれ。

健聴の姉がいたおかげか、当時にしては障害が判明するのがかなり早かったそう。泣き叫ぶ姉の横でテレビの音量を最大にしてケラケラ笑う私を見て、母はピンと来たらしい。診断結果は原因不明の先天性高度感音難聴。つまり生まれつき耳がきこえない。

両親は先端の医療を求めて東京へ。当時は人工内耳が日本に導入されたばかりで、私の聴力は適応基準に達していなかった。母は夢の国ディズニーでうなだれたらしい。

ということで1歳から補聴器を装用。発音訓練が辛かったという記憶はあまりない。補聴器の効果もあり、純粋にコトバを吸収する感覚だったように思う。

物心ついた頃からろう学校の幼稚部へ。当時の幼稚部は軽度難聴の子が多かったうえに口話教育だったため、手話に出会うことはなかった。週2回は地元の幼稚園にも通った。

魔の4歳児

とにかく謝らずに黙り込む子どもだった。母はいつも「アンタは4歳の時がいっちばん酷かった」という。

思い返せば、言いたいことがうまく言えずに口をつぐんでいた記憶だけが強烈に残っている。子供って大人が思ってる以上に色んなことを感じて子供なりに考えてるよね。

「こういう時は ”ごめんなさい” っていいなさい!」と怒られるたびに「なんで?」と疑問だった。わざとやったわけではないのになぜ謝る必要があるのか。

それより誰かが謝ってるのをまともに聞いたことがない。きこえないから言い訳の仕方も謝り方もわからなかったんだと思う。30年越しの言い訳。笑

そんなある日のこと。熱があった私は歩けず、母におんぶしてもらった。それを見た親戚は母に「きこえないから甘やかしている」とけなしたらしい。よほど悔しかったんだろう。母は未だにこの話を時々する。 

この母の悔しい思いは、無意識のうち私の心にも深く刻み付けられたように思う。

きこえなくたってひとりでできるもん。

母が言うには「自立するのが早くて親からすぐ離れたがる子だった」そう。そりゃそうだ。

いじめ

父に「ろう学校と小学校どっちへ行きたいか」と聞かれた私は「小学校」と即答。どっちみち父は小学校へ入れるつもりだったらしいし、私もそれを察していたように思う。

入学早々いじめられた。特に大人が周りにいない帰宅途中、上級生に後ろからボコボコ叩かれ、ロボットやら宇宙人やら色々言われた。補聴器が珍しかったのだろう。聞こえていないだけでもっとひどい暴言も吐かれていたと思う。ひたすら黙って耐えた。

とある夜、母にぽろっと「こんなことがあった」とこぼすと、母が静かに泣きだした。「きこえないのはお母さんのせい。ごめんね」…泣かせるつもりはなかったのに、私以上に母がダメージを受けたことがとても悲しかった。もう自分の耳のことで母を泣かせまいと幼心に誓った夜の思い出。

いつもいじめからかばってくれたキヨシ君には感謝してる。恥ずかしくて、ありがとうと言えなかったのが心残りである。

2年生になる頃には上級生からのいじめはパタリとなくなった。小中高と先生や友人には恵まれたと思う。

学校Ⅱ

人生で初めて観た字幕付きの邦画は、山田洋次監督の学校Ⅱ。忘れもしない小4のときだった。当時は字幕付きの邦画がとても珍しかった。

映画は北海道の養護学校が舞台で、西田敏行と吉岡秀隆が教師と生徒役の物語。吉岡秀隆といえばドラマ「北の国から」の純。道産子にとってのえなりかずきみたいな人である。

内容はほとんど忘れたが子供心に響いたのだろう。感動で涙が止まらなかった。西田敏行がとにかく良い先生で、映画の中で泣く純と一緒に泣いた。

そんな私をみた母は「この子にも人の心があって安心した」という。我が母ながらなんて失礼な。笑

「人の気持ちがわからない子に育ったらどうしようと心配してたの。お姉ちゃんと違ってアンタは感動シーンを見てもいつもポカンとしてるから…」

話の内容がわからないと感動できなくて当然じゃないか。母がそれを理解していなかった。いや、理解しているつもりでできていなかった、のかな。

「きこえない」ということがどういうことなのか、聞こえる人たちには到底分からないんだということをこのときに実感した。1番の理解者であるはずの母でさえ。

そんな衝撃も手伝ってさらに泣けた。そんな幼き日の記憶。

今思えば母も若かったし、仕方ないことだと思うけれど。

孤独

小5のある日。

先生がなんか怒っている。クラスの皆が下をむいてしょんぼりしている。誰かが何かやらかしたのかな?

先生が教室を出たあと、学級会が開かれた。

前の列から一人ずつ順に何か話している。反省するふりをしたほうがいいのかな。全然わからない。あれこれ考えているうちに順番が来た。仲の良い友だちが学級長だった。

「どう思う?」

39人からの視線が突き刺さる。

「わかんない…」

クラス全員から責められている気分になった。「なんの話?」たったその一言が言えなかった。

自分は何をしているんだろう。みんなと同じように振る舞うのに必死で、そんな自分が情けなかった。

学年が上がるにつれて周りとの差が大きくなっていくのを感じて愕然としたのもある。聞こえる人の世界は、自分が想像できないくらい、とても広いんだろうな。家でも学校でもきこえないのは自分だけ。急に孤独を感じた瞬間だった。

聞こえたらどんなに良いんだろうと思ったのもこのときが初めてだった。気がする。今思えば、このときはまだ自分の障害を受け入れることができていなかったのかもしれない。

この頃から日記を書き始めた。中学卒業まで続けたこの闇日記は、令和になる直前に処分した。

高校時代

小中高とずっと成績だけは良かった。「勉強しなさい」なんて言われたことはないけれど、自分のためというよりは母を安心させるために勉強していたように思う。

話は飛んで高3の春。詳細は省くが、それまでに色んなことが起きて急に何かがはじけた。

長年抱えてきた「母を心配させたくない」という思いから、「どこまで私を欠陥品扱いするのよ」という気持ちに変わった。

自分が聞こえないことで親を責めたことはないし、親のせいだなんて思ったことはないのに、いつも自分に対して負い目を感じている(ようにみえた)母に苛立ちを覚えた。「お母さんは悪くないよ」なんて慰める余裕はなかった。

The 反抗期。急に何もかもが嫌になった。いつもなにかあるたびに母の顔を伺っていた自分がばかみたい。勉強にも身が入らない。

とにかく家を出たい。

その一心で高校卒業後に上京。気づけばカナダまできてしまった。

(はしょりすぎ)

さいごに

親と一緒にいるのってたった18年だったんだなあ。上京して15年ほとんど帰らず連絡も取らず申し訳なかったなあと思う。カナダに来てからまた頻繁に連絡を取れるようになったよ。

今回のテーマのせいで暗い母みたいになってしまったけど、普段は明るいひとです。お笑いが好きで、優しくて、涙もろくて、表情がころころ豊か。思ったことはすぐ顔に出る。毒舌はきついけど天然だから許す。笑

「女は愛嬌」が口癖でとても愛想がいい。極度の心配性で「いつも子供たちが心配で眠れない」と言いながらいびきをかいて寝ている。そんな人である。

私がカナダに引っ越すとき、母は言った。

「そんなたくましい子に育てた覚えないんだけどなあ」

なにを言ってるんですか。あなたのせいです。いえ。あなたのおかげです。

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