2018年9月、右耳に人工内耳手術を行った私の半年間の記録。
人工内耳は補聴器とは違い、時間が経つにつれて少しずつ聞こえが変わっていきます。私の場合、人の声がまともに聞き取れるようになるまで半年かかりました。
人工内耳で初めて音を聞いた日からもう少しで丸2年。今ではすっかり馴染み、補聴器より格段にきこえが良くなったと感じています。
術後、人工内耳できく音がどのように変わっていくか、当時のメモをもとにまとめてみました。
なお、手術時の記録はこちらからどうぞ。
音入れ当日
手術してから3週間後、初めての音入れ。傷が落ち着いてからサウンドプロセッサをつけて初めて音を聞くことを「音入れ」といいます。
一番最初に聞いたのは「きこえる?」という姉の声。衝撃で涙が出そうになりました。
姉ちゃんこんな声だっけ…?人間の声じゃない。とても無機質で、まさに電気信号を変換しそびれたような声。というより音。
音入れ直後の音は「とにかくひどい」という情報を事前に仕入れていたため、覚悟は決まっていたつもりでした。人の声は特にひどく、「ロボット」だの「ドナルドダック」だの、少なくとも人間の声には聞こえないという体験談を多数みかけましたが本当ににその通り。
それでもやはりショックで平静を装うのに必死。
音はするけど何の音か全く判別ができない。
「きこえるけどきこえない」としかいえないのが正直な感想でした。
その後、病院の帰り道に馴染みのカレー店へ。以前はうるさくて話し声なんて全く聞こえないような騒がしいところでした。
でも今日は人の声らしきものが聞こえる。
まだ人の声として認識することはできないけれど、目の前で話している人の声が耳に入っているのがわかる。静かでもなくうるさくもなく、なんとも言えない不思議な感じ。
「あ、人工内耳すごいかもしれない…」少し希望が持てた瞬間でした。
それでもやっぱり聞き慣れていたはずの街の音がとにかく不明瞭で違和感半端ない。挙動不審になりながら歩いた帰り道。
今まで聞こえなかった音が聞こえ、聞こえていた音が全く聞こえない。ちぐはぐなかんじ。
できる限り色んな音を聞いたほうがいいとのことだったので、この日の夜から毎晩寝る前にひたすら音楽を聞いていました。初日は悲しいぐらいなにも聞こえず。かすかに雑音が聴こえるだけでした。
音入れ翌日〜1ヶ月目
言語聴覚士によると「聞こえる音が何の音か」を逐一確認しながら慣れていくためにも、音入れ後はできるだけ健聴者と一緒に過ごした方がいいとのこと。術後は姉の家にしばらく泊まりました。
一番変化を感じたのが最初の1週間。脳が育っていく感覚は感動モノ。
翌日
翌日はいろんなものを叩いてみました。何もかもが記憶の音と違いすぎてかなしい。特にタッパーやペットボトルを叩くと金属音のように聴こえて不快感しかありませんでした。
テレビの音はとにかく不明瞭。話者によっては口パクかと思うぐらい何もきこえない。
それでも一番聞きやすかったのはアナウンサーの声。不明瞭なのに変わりはないけど、スッと通るように聞こえる。やっぱり訓練してる人の声は違うんですね。
3日目
3日目から変化がでてきました。
急に水の流れる音がきこえ、昨日よりテレビの音声がきこえる。そんなふうに毎分毎秒、日々少しずつ音に輪郭ができていく感じ。楽しくなってきました。
でも音に対して神経質になりすぎたのか、三日目の夜は術後最悪の耳鳴りで眠れず。後にも先にもこの時だけ。ちょっと気を抜こう。
4日目
衣擦れ音、肌を叩く音、掻く音、爪切りの音がすべて「ピロンピロン♪」と電子音のように聞こえる。
肌を掻く音ってどちらかといえば「ポリポリ」に近いと思ってたけどこれが本来の音なのだろうか…?頭というより脳が混乱していました。
本来の音はそんな簡単に書き表せるものじゃないというのは理解しているつもり。でも無意識のうちに、漫画などで覚えてきた擬音語をもとに音を認識していただけなのかもしれない。今まで認識していた音って一体何だったんだろう。はて?
この頃は音を聞くたびに頭の中がハテナだらけでしたが、だんだんとハテナはなくなっていきます。
5日目
街中、駅、電車の中は割と静かで様々な音がそれぞれ別々に聞こえる。
首都高の高架下にいても車のタイヤが回る音がそれぞれ区別できる。それまでは「たくさんの車が走る音」というひとかたまりの音だったのが、信号で止まる車や発進する車、走行中の車の音、それぞれがはっきり聞こえる感じ。すごいなと思いました。
補聴器のように、全ての音が一気に入ってくる雑音とは違う。耳の遠くなった祖母が「補聴器はうるさい」と言っていた意味が今になってやっと理解できました。
補聴器で育った私にとってはその雑音が当たり前すぎて、あまり「うるさい」と感じたことがありませんでした。
「うるさい」ってなんだろう。自分の中で「騒音」や「雑音」の概念が変わったのが5日目。
6日目
救急車のサイレン音やチャイムの音が、補聴器のときより若干低く落ち着いて聴こえる。
人の声は相変わらず不明瞭なまま。そもそも声としてはっきり認識できないので名前を呼ばれても気づくことができない状態。
コンビニによってBGMに特徴があるのを初めて知った日。
7日目
ふと、隣人のシャワー音や足音が聞こえる事に気づきました。違和感があった掃除機の音も前日より自然に聞こえる。
それまで夜中の掃除洗濯シャワーが迷惑だということを知っていてもピンとこない感覚がどこかにありましたが、実際に聞くことで実感がわきますね。
久々に入ったカフェでは、コーヒーメーカーの音やシェイクする音、隣のビジネスマンのキータッチ音など、席に座っていても色んな音がはっきり聞こえました。でも1年経った今では全く気にならないし、意識しない限り全然わかりません。笑
小笠原諸島への旅
職場復帰を前に、小笠原諸島へ一人旅。船で片道24時間の長旅でした。
自然の中でぼーっとしていると、静けさの中にも風の音とか水の音とか本当にいろんな音がするんですね。
笛みたいなきれいな音がするなぁ、何の音だろうと思っていたら…2羽の鳥が追いかけっこしていました。
気づいた瞬間、目の前に広がる自然の美しさも相まって思わず号泣。誰もいなくてよかった。
(ちなみに、その時は純粋に追いかけっこだと思っていたのですが、調べたら発情期とか威嚇するときの行動らしいよ)
半日の登山ツアーでも、鳥や動物の鳴き声が聞こえるたびにガイドさんが解説してくれたので楽しめました。その中でも人生で初めて聞いた生のヤギの声は忘れられない。ヤギってほんとに崖に登って「メェ」と鳴くんですね。
術後ずっと都会のど真ん中で生活していたので、こうして大自然の中で過ごせたのはいいリハビリの機会になったなあと思います。
音入れ2ヶ月目
術後1ヶ月弱で職場復帰。職場の音も手術前と明らかに変わりました。キータッチ音、コーヒーをすする音、遠くから聞こえる話し声。静かだと思っていた職場が想像以上にうるさくてびっくりしました。
女性の先輩の声も前より聞き取りやすくなっていました。でもこのときはまだ人の声は不明瞭なままなので読唇をフル活用。「耳良くなったね!」と言われるたびに複雑な気持ちになりました。
一方、低い声、特に年配の男性の声が前より聞き取りづらくなりました。
このときは「女性の声」「男性の声」と視覚情報をもとに判別していましたが、実際は声だけで男女の判別はできませんでした。低い音と高い音の区別がまだ曖昧なまま。
脳が一生懸命学習しているんだろうな…処理完了するまで気長に待とう。AIを育てているような気持ち。
そして、人工内耳(インプラント)を埋め込みさえすれば健聴者と同じように聴こえると勘違いしている人の多いこと多いこと。難聴者でさえ知らない人もいました。
世間の人工内耳に対する認知度はまだまだ低いですね。
音入れ3ヶ月目
聴こえる音が格段に増えたと実感したのがこの頃。耳に入る音の幅が広がり、音に立体感が出る感じ。全体的に音の質が変わったような感覚を覚えました。
通勤途中、いつものように改札を通ると「ピッ」…いきなり Suica のタッチ音が聞こえました。電車のアナウンスもある日急にすべて聞き取れるようになりました。
それまでは到着駅名しか聞こえなかったのが、ドアが開く方向、忘れ物予防、乗換案内まで。知識としてそういうアナウンスがあることはなんとなく知っていましたが、実際に聞くとあまりの丁寧さに脱帽。
ただしすべての路線ですべてのアナウンスが聞こえるわけではなく、乗り慣れた電車、聞き取りやすい声、周りの雑音などにも左右されます。
音入れ4ヶ月目
音入れから3ヶ月が経過し、人工内耳をつけて初めての聴力検査。結果は 30dbでした。
補聴器を装用したうえで聴力検査をしたことがないため客観的に比較する事はできませんが、人工内耳装用後として平均的な結果だそう。
(健聴者が通常の会話が聞き取りづらくなり「補聴器をつけようかな」と考え始めるのが30〜40db。数字が大きいほど聴力が下がります)
色んな音がクリアに聴こえるようになる一方、人の声に関しては補聴器の方が良かったと思うぐらい、このときはまだ不明瞭でした。声は聞こえても言葉が思うように聞き取れず、もどかしい思いをすることのほうが多かったです。
人間の声は「色んな要因が複雑に絡み合った音」なので脳が声として処理するのに時間がかかるんだそう。頑張れ脳。
音入れ5ヶ月目
それまでは雑音でしかなかった乗り物の中での聞こえ方がどんどん変わっていきました。
運転中に横を走る車の音や、飛行機内での搭乗員の声が聞こえるようになっていました。地下鉄の中での人の声も割と聞き取れるようになりました。
そして久々の帰省。いつも聞き返してばかりでまともに会話ができなかった叔父とスムーズに会話ができたときは、私以上に叔父が驚いていました。
ショッピングセンターの中もただの雑音ではなく、店内の様々な物音、色んな人の声や足音が混ざって雑音になっているのがはっきりわかる感覚。
人工内耳で聴こえる音が増えることによって「うるさい」と感じるかどうかは個人の性格にもよる気がします。私は鈍感な方なので逆にいろんな音を楽しめています。補聴器で雑音に慣れていたのもあるのかもしれません。
音入れから半年
半年経つ頃には、良くも悪くもすっかり馴染んでいました。以前のような音の変化に対する感動も激減。
必死に記憶の中の音と比較して一喜一憂していた頃と比べると、いい意味で音に対して鈍感になったのかもしれません。当初のちぐはぐ感はなくなり、不自然だった数々の音も今では自然な音に変わっています。
それと同時に人の声が明瞭に聴こえるようになってきたと実感したのもこの頃。無機質だと感じることは全くなくなり、人間の声として違和感なく聞き取る事ができるようになりました。
気づけば男女の声も判別できるようになっていました。いつの間に?自分でも不思議です。
カナダ移住
術後9ヶ月の 2019年6月、カナダへ移住。失聴で一度諦めかけたカナダ行きでしたが、リハビリの効果が予想以上に早く、予定通りに準備を進めることができました。
カナダに着いてまず感動したのがやっぱり地下鉄。乗客の話し声が聞こえる。左右どちらのドアが開くかアナウンスするのは世界共通だということを知りました。でもそれ以外余計なことを言わないのが日本よりシンプルで良い。
ストリートカー(路面電車)も、以前はアナウンスがあるのかどうかさえ分からないほど雑音がひどかったのですが、今では声がはっきり聞こえます。
英語の音、特に S や F の音も前より聞き取りやすくなりました。
でもやっぱり英語は第二言語なので、音声を聞いただけで何を言っているか理解できるようになるには日本語以上に時間がかかるだろうし、限界もあると思います。読唇もまだまだ…なのでもっと勉強しないと。
最後に
人工内耳は完璧ではありません。しょせん機械であることに変わりはありません。
いったいいつになったら世界は「正しく」聞こえるようになるのか
サイボーグとして生きる
人工内耳をつけたとしても、正しく、つまり本来の「聞こえる世界」を知る術はないんだろうなと思います。
補聴器と人工内耳の音が全く違うのと同じように、人工内耳の音と聴者がきく音はまた全然違うんだと思うと寂しいような虚しいような気持ちになることもしばしば。
ただ、長年補聴器を装用した身からすれば、人工内耳をつけてみて良かったと本当に思います。この歳で聴力が落ちたのもなんかの縁、ある意味良いタイミングだったと思っています。
何より、音に立体感が出るこの感覚は補聴器で味わうことはできません。
今ではだいぶ馴染み、ある日突然「あ、この音が前より聞こえるようになってる」と気づくことが月に1回あるかないかぐらいになりました。それでもまだ可能性を感じる人工内耳。これからまたどう変わっていくか楽しみです。